僕の周りにも常に旦那さんの文句を言っている人はたくさんいますけど、愛あってこそと思える人とそもそも旦那さんの選定を間違えたんじゃないかと思う人がいます。
交換可能な愛
ここ何年か時々頭に浮かぶ哲学的な命題があります。・あなたは今の妻/夫と死に別れたら再婚するか?
"はい"と答えた人;
・ではあなたはなぜ今の妻/夫をパートナーとしているか?
・今あなたの描く理想像そのものの人があなたの前に登場してあなたを愛し、またあなたがその人を愛していたらあなたはどうするか?
・ではその人と今のパートナーの違いは何か?
・ではあなたとあなたのパートナーの間にある関係を何と定義するか?
現代に生きる私達は自分がそう願えばいろいろな人にめぐり合い、いろいろな人を比べるチャンスに恵まれています(平等にではありませんが)。これは人類の歴史からすると実はごく新しい現象と言えます。選択とは多くの人にとって後悔の伴う行為です。僕自身のこの問に対する答えは"いいえと思える人を見つけたい"ですが、実際には"はい"と答える人の方が健康的で人間らしいんじゃないかと思っています。
依存との違い
多くの人が相手に奉仕するものを愛とし、相手の愛を求めるものを依存として区別できていると思います。共依存という言葉があります。暴力を振るう夫とそれに耐える妻の関係、支配的な親と愛情を受けたい子供の関係を指します。私の知り合いでお酒の席に参加しただけで彼氏から暴力を振るうといった脅しのメールを受けていた人がいます。一方でそんな状態が長く続いたにもかかわらず彼女は別れませんでした。一般には理解しがたい共依存という作用が働いていたといえます。
"相手がいなければ生きていけない"という状態はどうでしょうか?相手に捨てられることを恐れて相手の求めていない奉仕をしたり、捨てられる自分を悲観したり同情したりする状態は依存と言って良い状態ではないでしょうか。では、夫と死に別れ、失意に陥って後追い自殺した人をあなたはどう評価しますか?残りの人生を悲観し死んでしまうのは同列で考えると依存の一種になります。
しかし、古典悲劇の傑作"ロミオとジュリエット"の場合はどうでしょうか?
wikipedia より抜粋これを美しい愛の形ととらえるべきでしょうか?それとも、単に依存とするべきでしょうか?どちらかというと前者、または運命の悲劇ととらえた人が多かったから愛の古典として長年評価され続けてきたというほうが筋が通っているのではないでしょうか。
ジュリエットに助けを求められたロレンスは、彼女をロミオに添わせるべく、仮死の毒を使った計略を立てる。しかしこの計画は追放されていたロミオにうまく伝わらず、ジュリエットが死んだと思ったロミオは彼女の墓で毒を飲んで死に、その直後に仮死状態から目覚めたジュリエットもロミオの短剣で後を追う。
ここまで来てしまうと単純に愛と依存の間に境界線を引けなくなってしまっていることに気がつかされます。依存は愛に所属しています。別の言い方をすると、親子愛、兄弟愛、恋愛、友愛すべてが依存と深く関係をしています。このことが愛と依存を簡単に切り離すことを難しくしています。
"愛する人のために死ねるか?"
とは、日本のHM/HR界を牽引する伊藤政則さんが昔ラジオで言っていた印象深い言葉です。これは"あなたが死んだから私も死ぬ"ではなくて、恋人や自分の子供の命が自分の犠牲の上に成り立つ場合、身代わりになれるか?という問いです。他人への愛が自己愛を勝ることを純愛と呼ぶのでしょうか。古代の愛 - 人間愛
私の知人に(それも有名で多くの尊敬を集めている凄腕の人)究極の愛は人間愛で、理想はボノボ社会、だと言い放つ人がいます。そして彼は一人の人を一生の伴侶とするのは西洋社会が持ち込んだ罪とも言っていたそうです。確かに、江戸時代には男女平等ではありませんが一夫多妻制があったり、平安時代には母系社会だったため男性による女性の家への通い婚があったりと、愛の形は今よりも曖昧でしっかりとした区別があるものではなかったようです。後悔
僕の知人で6年ほど彼女とお付き合いをし、同棲を経験した後、別れてしまった人がいます。別れる間際、彼女には男の影がありました。彼は別れた後、その人以上好きな人は今後登場しないだろうということで、自暴自棄になって結局そのあと彼に優しく近づいてきた人と結婚しました。彼は結婚はタイミングと運だと言いましたが、私は他人目線で彼に合うタイプでないと思ったので、ちゃんと自信を持って愛する人を追求するように言いましたが彼は結婚しました。今彼と彼の元彼女はそれぞれ家庭を持ち子供がいますが、時々会いお互いの愛を確かめ合っています。彼女が気移りしやすい人で、そのときの雰囲気で別の男性になびいてしまったのですが、数年後結局もとのさやが良くて手紙を送ってきてまた会い始めたというところのようです。でも、だれが彼を責められるでしょうか?こういうことは浮き彫りにならないだけで身の回りにいっぱいあります。お互いに家庭があって子供がいても男女間の愛を追求する。これも二人で完結していれば愛の形です。では、それを知らない可愛そうな残されたパートナー達との間の関係を愛と定義すべきでしょうか?愛が無いのに一緒にいる理由は何でしょうか?男女愛が無くて家族愛だけが存在している状態でしょうか。
僕の知人で奥さんと子供を妊娠中毒で同時に亡くした方がいます。まさにこれから幸せになる瞬間に地獄で一人になった人です。彼は数年後その後初めての彼女を持つにいたりましたが、墓前にそのことを報告したそうです。では彼の亡くなった奥さんに対する愛、そのときの彼女への愛をなんと定義すべきでしょうか?愛が一つしか存在しないとした場合、この二つの愛のどちらを本当の愛とすべきでしょうか?
その後その彼女はお付き合いがある状態なのに会社の先輩との間で妊娠しました。その会社の先輩というのは同棲している別の彼女がちゃんといたのでした。
一緒にいるのに文句しか出なくなってしまった人 - 後悔しかないのであれば本当のところは文句を言うのをやめて別れて自立すべきなんだと思います。それか、もう一度自分の胸に手を当てて本当に後悔しかないのか確認してみるべきなのではないでしょうか?それか一生文句を言うことでないものねだりにエネルギーを使うか天秤にかけなければいけません。傍から見ても二の轍を踏みたくないなと思わせられます。私は変にこだわりがあるので一度でも愛した人を侮辱した状態でいたくないです。
守りたくなるタイプ - 私がまずどうにも理解できないのが、世の中の男性に守りたくなるタイプの女性が好きな人が多いことです。人それぞれ理由があるんだろうから非難することではないと思うのですが単純に理解が及びません。人の集まりなどに連れて行っても常に気を使わなければならないような人に世の中の男性は何の魅力を感じるんでしょうか?それから男性より女性の方がずっとしっかりしているので、本気でどこまでも守ってもらう必要があると思っている女性がいるか疑わしいです。女性を物理的に守る必要がほぼなくなった現代、男性が本能的に守りたい対象を探していると言った方が的を得てるのではないでしょうか。
極端に世の中に関心がない人 - こんなことを言ったら世の女性に非難轟々にされそうです。先に擁護しておくと、私は女性のスピード感のある直感的な判断とかセンスが大好きで、女性は往々にして男性より問題解決がうまく頭が良いんだという意見の持ち主です。けれども、一生の最も長い時間をともに過ごすには、日曜のお昼を退屈じゃなくしてくれる人を探すのは大変難しいことです。細かいセンスを発揮しなければいけない分野について話をするときに、良いフィードバックを期待できるような女性を見つけることは大変難しいことです。私が頭が良くないから意見を求めていているのに"難しいね"といって話の内容全体を丸め込まれるとなんとも言えない気持ちになります。一緒に頭でっかちになれと言っているのではありません。理屈よりも背後にある精神性やセンスの問題を指摘して欲しいのに、それを放棄されるとどうにもつまらないものです。例えば数学者同士、哲学者同士、政治家同士、上司同士が論争しているときにその裏にある感情の流れをずばり指摘してあっさりと問題解決をしてしまうような能力を僕の場合女性の魔法のような長所だと思って期待しているのに、それを放棄していきなり近所で人気のパン屋の話に話を摩り替えられることが多いです。女性が理屈っぽい話が退屈なのは分かるけど、CanCamに載るようなブランドを追い続けるには人生は長すぎる。東西関係なくこちらにいる女性と話すといきなり同じ目線から話してくることが多いですから、恐らく日本におけるジェンダーの違いが原因ではないかと思います。男性、女性両方の責任ではないでしょうか。
愛とは
愛とはあまりにも多様で崇高であり、私がここで定義して良いような代物ではありません。我々個人が一生をかけて模索するものなのでしょう。僕の恋愛感なんて未熟なものですが、少し前まで先に挙げたように結局は人間愛しか無いんだと思っていました。男女間の愛が薄れてしまっても、家族を形成する理由たりえるからです。また私には人を好きになるという能力が完全に欠落してしまっていると思っていました。その相手を交換不可能とするには十分な理由が足りなかったからです。むしろ一過性の気持ちから判断してまうことの方が怖かったのです。だから気持ちの高ぶりの渦中にあってもごく客観的にとらえてしまうことができてしまいます。考えるな感じろとおっしゃられるかもしれませんが、好きであるという感情を感じることすらできなかったのです。
残念ながら愛は私達を社会生物たらしめるプログラムの一つだと思います。ゴキブリの歩行が、ある脚が着地したら隣の脚を浮かすだけの単純な自律型のプログラムであのすばやい動きを実現していると解明されているように(実際はもうちょっと複雑)遠い将来に解明されるものでしょう。ただゴキブリの神経よりも複雑なだけです。
ただ、科学的な理由はそれそのものが生み出す愛の瞬間的な輝きに敵わないです。私は普通の人が普通に与えてくれる愛を愛として愛したいです。そして過去の自分と人間愛の理論に反論したいのは、社会的な背景が及ばない、なんとも言葉では言い表せない人間愛と男女愛の違いが世の中には歴然とあって、ある人と男女間の愛を共に体験し、しっかりと噛み合っていて全くといって良いほど妥協していないと他人に言えるとき、それを愛と呼び、その人を奥さんにしたいと立候補しても良いんじゃないかなと僕は思っています。
以上、愛についての話でした。乱文失礼しました。
お口直し
ちょっとつっこんだ話をしたのでお口直しを私は普段知覚に訴える音楽が好きなのですが、人生が終わるころにはきっとこんな感じの文学的な音楽に帰っているのではないかな。
I Dreamed a Dream/Susan Boyle
この人のこと皆好きなのはいくつになっても真っ直ぐに夢を諦めない視線が好感を呼んだからじゃないでしょうか?またこの人のこのカラっとした性格は何かを諦めた人の力を示している好例ではないでしょうか。この人が47歳でキスをしたことも無いのと、この"ああ無情"の歌の歌詞を見比べててみてください。この人こんな体験したことがないのにこんなに健やかに歌っているんですよ。本当にすばらしい人
Shade of pale/ Procul Harum
私が全ての音楽の中で一番好きな曲。凄く男性的な立場の歌詞
Shenandoah/ Sissel
アメリカ民謡。シェナンドーァという酋長の娘に恋してしまったミズーリ川の白人の船乗りがいつも歌っていた曲
こちらも男性的な立場の歌詞。ぜひステレオスピーカで聴いてみてください。